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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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| 平原遺跡 |
前原市は、はるか昔、『伊都国』と呼ばれていました。
魏志倭人伝に出てくる『伊都国』は外交の要所であり、未だ、多くの謎に包まれた邪馬台国の存在について多くの手がかりを秘めています。
『伊都国王』が眠るとされる平原遺跡をはじめ、大小さまざまな遺跡群が各地に点在する前原市。古代のロマンを探り、伊都国への旅にタイムスリップします。
前原市の歴史をたどる旅。それははるか昔、紀元前のわたしたちの遠い祖先の時代にさかのぼります。
今から一万年も昔の石器時代、わたしたちの祖先はまだ土器を使わず、石を打ちかいて、槍や斧をつくっていました。それらを道具に、動物などを狩猟して食料とし、生活していたのです。その後、時代は移り変わり、従来の石器に加えて土器が作られる縄文時代となります。市内では、『本遺跡』や『野呂高原遺跡』から土器の破片や、石を磨いてつくられた磨製石器などが発見されています。
縄文時代の次は、弥生時代となります。弥生時代には稲作が始まり、金属器が使われるようになりました。特に、前原市・志摩町・二丈町が含まれる糸島地域は、中国大陸および朝鮮半島と近い位置にあることから、大陸の文化がいち早く伝わってきたとされます。国指定史跡となっている『支登支石墓群』はそれを示す遺跡の一つで、弥生時代前期のものとされます。この墓は中国東北部から朝鮮半島にかけてつくられた巨石墓群と同じ形状であり、ここに葬られたのは朝鮮半島からの渡来人か、または彼らと深い関わりがあった人とされます。
そして、3世紀に書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』に、前原市にあったとされる『伊都国』の記述が見られます。そこには伊都国に代々王がいたことや、伊都国は邪馬台国の統率下にあり、魏(中国)と交流があったことなどが書かれています。伊都国について、王宮の位置など詳細はまだ謎のベールに包まれていますが、伊都国王の墓とされる遺跡が市内にあります。それは『平原遺跡』や『三雲南小路遺跡』などです。
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| 甕棺(かめかん) |
『三雲南小路遺跡』からは2基の甕棺(かめかん)が発見されています。1号甕棺は文政5年(1822)に発見され、記録では、甕棺墓から35面以上の前漢鏡と銅剣、銅矛、ガラス製品などが出土したと記されています。
2号甕棺は昭和49・50年(1974・1975)の再調査で発見され、大きさも約2.5メートルを越える巨大なものです。甕棺墓には前漢鏡22面以上、ヒスイやガラス製の装身具が副葬され、遺跡の規模や副葬品から伊都国の王族の墓であり、日本最古の王族だと考えられています。
『平原遺跡』からは墳丘墓が5基発見され、伊都国の王墓と考えられる1号墓から40枚の銅鏡が発見されています。銅鏡の中には直径46.5センチの内行花文鏡が5枚あり、日本最大の大きさを誇る、国産の銅鏡とされています。
この墓の出土品にはアクセサリー類が多く、武器類は素環頭大刀1本だけだったことから、女王の墓ではないかと考えられています。大量の鏡や副葬品から、伊都国には強大な権力を持つ女王がいたことがうかがえます。
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