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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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| 高国寺 |
高国寺は二本松市下川崎字岡田に在る。本尊は釈迦牟尼如来である。
高国寺の開創・畠山家9代の義氏が夭亡(わかじに)し、継子がなかったので、従弟の畠山義国をして、畠山高国から10代目の家督を相続せしめた。このとき、下川崎の三島の領主である畠山次郎宗頼の祖である満国は、畠山3代城主国詮の長男であるにもかかわらず妾腹(めかけの産んだ子のこと)であるという理由から、嫡妻(正妻・本妻のこと)の子である弟の満泰を4代城主としたのである。
さて長男直系の宗頼はこれが不服であるために、弟の義春(上川崎・菖蒲沢館主)と、同義顕(義昭とも記されている)なる三合内館主とに相談をして、畠山家の正統を知らしめようとした。そして、元祖高国の祖廟を岡田の地に建立し、これを高国寺と号したのである。
天文12年(1543)2月8日とされている。すなわち、二本松町の竜泉寺四世の利宵厳益和尚を請い開山した。ところでこのはかりごとが二本松の畠山家に悟られないようにと、宗頼は剃髪の身となり、かつ「畠山」の名を改め、大井田観音坊勧仏と名のったのである。
さらには二本松畠山の近族を味方につける策を講じた。すなわち勧仏は自分の娘である「千歳の前」が容顔美女なるを幸に新城左近将監家綱の長男八郎尚綱の妻女に遣わしたのである。尚綱が「千歳の前」を愛しているので、自分の館に彼等二人を招き、二本松畠山氏を攻め討つ内談をした。ところがこの内談を左近将監家綱が聞きつけたので、早くも義国に訴え、さてはわが子の策と同調しないという真意をみせるために、彼自ら討伐の将となって三島館に進発したのである。
さて八郎尚綱も父家綱が大将となって馳せ向うと聞いてはじっとしていられない。父に弓を引くべきではないとして、相馬盛胤を頼って落ち去った。
しかし勧仏・義春・義顕にとっては当初からの計画であるために義春・義顕・三河守西嶽・土佐入道雲誓・川端但馬守を先頭に二本松攻勢となった。この戦いのことは本史「川崎畠山家と川崎の戦」に詳記しあるので省略するが、勧仏は首を刎ねられ、その息牛房丸は投身、義春・義顕共に戦いに敗れ、居館への帰途追われて菖蒲沢で義春は戦死、またその弟の義顕は三合地で戦死した。
昭和22年に義顕の供養塔が戦死した三合地館側に福井県在住の末孫の手によって建てられた。その義顕の子が幼なかったので母とともに三春に落ちのびたのが、元亀3年(1572)2月18日と記されている。
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