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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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| 平井城跡 |
平井城と金山城は、室町幕府の関東管領職にあった山内上杉氏の居城と、その詰めの城(戦闘用の山城)でした。居城があった西平井地区は、1世紀余りの間、関東の実権を握った山内上杉氏の城下として栄えました。平井城は、永享10年(1438)頃に関東管領山内上杉憲実の命によって総社(前橋市)の長尾忠房が築城したと推定されています。さらに、平井城は、山内上杉氏を継いだ顕定によって、応仁元年(1467)に築城・城域が拡張されたと考えられ、このときに金山城が築城されたと考えられます。 両城は、天文21年(1552)の春、小田原に本拠をもつ北条氏康に攻められ落城しました。時の関東管領山内上杉憲政は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の援助をもとめて亡命しました。その後、両城は後北条氏の支配下におかれました。永禄3年(1560)の長尾景虎の関東出陣の時に奪還された平井城は、景虎によって廃城にされたと伝えられています。
平井城跡は、西平井地区の鮎川左岸の断崖上にあります。 「本丸」と呼称される主郭は、鮎川が湾曲する南端部に置かれ、その西に「二の丸」と「笹曲輪」という副郭が南北に連なり、北には「三の丸」があり、城域を「庚申堀」で囲み、自然地形を生かした「惣構」となっていたと推定されています。 主郭は、ほぼ真南を頂点とする長軸94m、短軸70m程の五角形をし、鮎川の断崖面には堅牢な竪堀、断崖面以外は内堀と内土塁で区画されていました。北側には外土塁と外堀があり、外土塁は「二の丸」と繋がっており、副郭が主郭を包み込んだ構造であったようです。 現在、関東管領平井城趾公園として、土塁や内堀・橋などが復元整備され、当時の平井城の姿を垣間見る事ができます。
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