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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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| 反射炉跡 |
文政6年(1823)ごろから、那珂湊沖にもしばしば異国船が出没するようになった。水戸藩では早くから国防の必要を唱えていたが、とくに徳川斉昭は熱心で、那珂湊の吾妻台に反射炉をつくり、鉄の大砲を鋳造することにした。
反射炉とは高熱で鉄をとかす熔鉄炉のことである。
反射炉建設の工事は、南部藩士・大島総左衛門、薩摩藩士・竹下清右衛門、三春藩士・熊田嘉門を招いて行なわれ、棟梁は、字小川町の飛田与七がその任にあたった。
安政2年(1855)にいたり第1炉、つづいて4年に第2炉が完成した。高さ15m余に達するもので、使用した耐火煉瓦は約4万枚におよんだという。その耐火煉瓦も苦心してつくられ、約1600度の高熟に耐えることができ、長州萩や伊豆韮山のものよりすぐれている。
反射炉の敷地には、役人詰所、大砲方、細工所、瓦釜場などの付属建物もあった。
ここで鋳造した大砲は、28門以上、各地の砲台(台場)ヘ据え付けられたり、また幕府へも献納されて、大いに国防の役目を果たした。反射炉は元治甲子の乱(1864)に破壊され、昭和12年に現在の反射炉模型が建てられた。
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