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日頃、見慣れた風景でも、ちょっと見方をかえてみませんか? きっと新しい何かが見つかるかも知れません。
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ぜんそくは気道の粘膜に対する何らかの刺激により、気道が収縮して発生します。刺激になるものは個人差がありますが、たばこの煙、ほこり、気候の急激な低下などが要因になります。
四日市ぜんそくの場合、環境の悪い地区での生活を続けることにより、発作の回数が増えたり、発作の程度が悪化するなどの現象が見られました。四日市ぜんそくの主たる原因とされているのは、重油が燃やされた時に発生する二酸化硫黄でした。現在に比べて煙突が短かったため、工場から排出される煙が地域住民に信じられない濃度で襲い、人々の健康を蝕んでいきました。なかにはその想像を絶する苦しみから逃れるために、自殺の道を選ぶ人まで出てきました。もはやこのような状態では、憲法が謳っている生存権など紙切れの上の話でしかありません。 四日市ぜんそくの事の発端は、昭和33年に海軍燃料廠跡地争奪戦から始まります。海軍燃料廠跡地は、その巨大な利権から国際石油資本までがその取得を試み、跡地争奪戦は泥沼化しました。この争奪戦を制したのが、シェルと提携していた昭和四日市石油でした。
昭和34年には、その昭和四日市石油が送るナフサ(石油化学製品の原材料)を分解して、各工場に送るための施設が完成。これを皮切りにいわゆる第一コンビナートが形成され、工場が特定地区に集中します。昭和36年、午起海岸が埋め立てられて第二コンビナートの形成が始まり、いよいよ問題が表面化してきます。第三コンビナートの予定地は、四日市に残された最後の海岸で、すでに遊園地も作られていました。普通このような所にコンビナートなど建つわけがないのですが、工場から得られる税金にしか頭がまわっていなかったのか、反対派住民など存在しないかのごとく、強行採決を行ない死の計画は進んでいきます。 公害の影響は、漁業に露骨に反映されました。伊勢湾で水揚げされた魚が油くさくなったので、せっかく漁で捕ってきた魚も売れず、漁民は経済的損害を受けました。漁民の意向をまったく耳にいれない企業側に対して実力行使もされましたが、基本的な解決には程遠いものでした。 県の調査で、一連のぜんそくや、油臭い魚の原因が工場と分かったところで、「規制する法律がない」という態度だった行政。地域住民を無視し続けた企業たち。地域住民は司法にその解決への道を求めました。長い法廷闘争の結果、ある程度の被害者が救われことになりました。しかし、これは大きな一歩でした。いわゆる四大公害病後の環境庁の発足や、生存権の権利の確認がされ、四日市に関しては環境は改善されました。ただ、日本全体で考えればまだまだ環境に対して、日本は甘いように思えるのです。
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