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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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芭蕉翁生家
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芭蕉が生まれた生家は通りに面し、表は格子構えの古い町家で、玄関から奥まで通り土間となっています。芭蕉は正保元年(1644)松尾与左衛門の次男としてここで生まれました。芭蕉の伝記の中で最も古く信頼される『蕉翁全伝』(宝暦12年(1762)川口竹人稿)に「正保元甲申の年、此国上野の城東赤坂の街に生る…」とあります。出生月日は不詳です。幼名を金作、長じて宗房と名乗り、通称は甚七郎、忠右衛門と称したとも伝わります。2男4女の3番目で、兄半左衛門のほかに姉一人妹三人がいました。
10代の後半、上野の町で盛んであった俳諧に興味を持ち、先輩俳人たちに手ほどきを受けます。そして19歳の頃、藤堂藩の侍大将・藤堂新七郎家に奉公に出ました。仕えた身分は台所用人とも料理人とも伝えられています。跡継ぎの良忠は蝉吟と号し、京都の北村季吟に俳諧を学んでいたことから、俳諧好きであった芭蕉も良忠と共に俳諧に励んだといわれます。ところが、良忠は25歳の若さでこの世を去ってしまい、芭蕉はまもなく藤堂新七郎家を退身しました。時に23歳。その後数年間のことはあまり知られていませんが、伊賀上野に住まいを置きながら俳諧の修業のため、時折、京都にも出かけ古典や俳諧に必要な学問を修めたといわれます。
その研鑽の結果が、寛文12年(1672)29歳の1月、伊賀の俳諧仲間を集め初めて編んだ三十番発句合の『貝おほひ』です。この『貝おほひ』を文学の神で連歌の神でもある上野天神宮へ奉納、俳諧師として世に立つ決意を示し江戸へと旅立って行きました。江戸へ出てからもふるさと伊賀上野へは旅の途中度々帰郷しています。芭蕉にとって青年時代までを過ごしたこの生家はふるさとを実感できる安らぎの場所だったのでしょう。
生家の裏庭には釣月軒と呼ばれる建物が建っています。ここは芭蕉の青年時代の書斎で『貝おほひ』を執筆した記念すべき文学遺跡です。文机と行灯が置かれた質素な部屋に若き日の芭蕉の姿が300年を越え蘇ってきそうです。 また、通りに面して芭蕉が「笈の小文」の旅で帰郷したとき詠んだ「古里や臍のをに泣としのくれ」の句碑が、昭和38年(1963)に翁の270回忌を記念して建てられています。
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