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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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米百俵の群像
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小泉首相の所信表明演説でも引用された有名なハナシ…。
幕末維新の風雲は戊辰戦争で終結した。長岡藩は軍事総督・河井継之助の指揮の元、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。 その結果、250年余りをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、禄高は7万4千石から2万4千石に減らされた。
敗戦後、文武総督に推挙された小林虎三郎が、弟雄七郎にあてた手紙に「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に3度の粥すらすすることのできない者がいる」とあった。
こうした状況の中で、明治3年(1870年)5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。 米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。 そば一杯がおよそ24文、金1両は約10000文であったので、いかに大きな贈り物であったかがわかる。
ところが、藩の大参事となっていた虎三郎は、この米百俵を藩士たちに分配せず学校を作ることにしました。
見渡すかぎりの焼け野原の中「時勢に遅れないよう、時代の要請に応えられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出したのです。
夜中、虎三郎のもとに押しかけ、「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かって、「この米を、1日か2日で食いつぶして何が残る。国が興るのも、滅ぶのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。 …この百俵の米をもとにして、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。 いや、米俵などでは見積もれない尊いものになるのだ。その日暮しでは長岡藩は立ち上がれない、新しい日本は生まれない」と諭しました。
そして米百俵の代金などの資金を元に、明治3年6月15日、長岡国漢学校を坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校したのです。
国漢学校には洋学局や医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供も入学を許可されました。
ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出されることになりました。 東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥…。
この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになり、「国が興るのも町が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与えたのです。
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