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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
大友宗麟
大友宗麟像
大友宗麟像
大友家は元々源頼朝の庶流ということで、源氏の血を継承する一族です。鎌倉時代に豊後守護として九州に入り、大友宗麟の時に最盛期を迎えました。
大友宗麟は幼名を塩法師丸と言い、元服後に義鎮(忌み名)と名乗り、一般的に知られる宗麟の名は入道名です。宗麟が21歳の時に、父の義鑑が「二階崩れ」と呼ばれるお家騒動で瀕死の重傷を負いました。原因は家督争いで、義鑑が宗麟の弟である塩市丸に家督を継がせようとしたために、これに反発した家臣が義鑑暗殺を企てたということです。この件で、弟の塩市丸は死亡し、宗麟が家督を継ぎ21代当主になりました。
家督を継いだ宗麟は、豊後・肥後両国守護職を継承。そして豊前・筑後・肥前・筑前の守護職も手に入れ、九州探題の地位を手に入れることに成功しました。宗麟は九州探題という武家官職などに興味を示し、他にも官位左衛門督、正4位下、従三位を受けました。
宗麟は府内を国際交易の拠点として、南蛮貿易で大友家の栄華を極めましたが、この影響はあらゆる分野に波及しました。宣教師アルメイダには育児院の建設の許可を与えるなど、貿易により物だけでなく西洋の文化や考え方も一緒に府内に輸入することに成功しました。また、宗麟は48歳で洗礼を受けてドン・フランシスコと名乗り、ローマにも少年使節を送るなどし、キリシタン大名と呼ばれる由縁になっています。
宗麟も人間であったので欠点ももちろんありました。まずキリシタンであったので、柞原(ゆすはら)八幡宮などの神社を排撃しました。次に彼は淫蕩でした。家臣の妻であろうが美貌の女性を見ると、手段を選ばず手中に収めました。その家臣を殺めてでも手に入れていたのですが、このため家臣の団結力に綻びを生じることにもなりました。それは戦でも謙虚に現れてきます。耳川の合戦で島津義久に勝負を挑んで敗れてからは、龍造寺氏の独立や離反者に足元をすくわれ、島津義久が攻め込んできたりと収拾がつかなくなります。島津軍は宗麟の居城まで攻め込みますが、貿易で手に入れた大砲で城を死守します。それでもさすがに限界を感じた宗麟は、豊臣秀吉に援軍を請うことになります。結果九州は秀吉に統一されますが、これにより宗麟の息子義統が豊後一国を治めることになりました。宗麟は58歳でこの世を去りましたが、現在では大分を代表する武将として像が建てられています。

場所/大分市勢家町4-6
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