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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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| 妙国寺前の土佐十一烈士の墓 |
日本の「ハラキリ」が西洋諸国に知れ渡るきっかけとなった土佐十一烈士の切腹、これが堺事件。
フランス軍艦一隻が堺港に現れ1868年2月15日、艀に分乗した水兵が上陸した。
フランス側の資料には一切記述は無いが、水兵たちは神社仏閣に侵入し、怖がる婦女子を追い回したり等と傍若無人の振る舞いを繰り返した。 そこで町民からの訴えを聞いた土佐藩士は現場に急行、説得して船に帰すのが良策と判断し、身振り手振りで船に帰るように示したが言葉が通じないため、却って藩士に向かい笑い出したり、口笛を吹き踊り出すという事態になった。 さらに、土佐藩隊旗を奪うという愚挙に出たフランス兵との間のいざこざがたちまちにして銃撃戦に発展。
この銃撃戦でフランス兵11名が射殺あるいは溺死し、内に問題を抱える上、「神戸事件」から間も無い為、日本政府はフランス側の要求を全面受諾する事になった。 その要求とは、加担者の処刑、遺族に対する15万ドルの賠償金の支払い、朝廷の謝罪、藩主豊範の謝罪、開港地の土佐藩士の通行禁止というもので、しかも、処刑者がクジで選ばれるという理不尽な結果となってしまった。
処刑場は事件の現場から程近い妙国寺で行われ、処刑者達も決して罪人扱いはされず、皇国の為皇国の士気を十分示すようにと士分に取り立てられ、藩主から拝領の絹一重をまとい、細川家、浅野家差出の籠に乗り、300人の兵士に守られて妙国寺に赴いた。 いよいよ処刑の時を告げる鐘がなり、箕浦猪之吉が呼ばれ、短刀で腹をかっさばき、呪詛の言葉と共に「はらわた」を掴み出したところで介錯人の馬渕が介錯、この時、猪之吉弱冠25歳。 そして西村左平次がそれに続き割腹。行年24歳。次々と切腹が行われていたが12人目を前にあまりの惨状に公使ロッシュは五代に中止を要請、受諾された・・・云々。
妙国寺に残る遺品を見ていると、彼らがいかに無念であったろうと万感胸に迫るものがある。
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●場所/堺市材木町東4丁1-4 妙国寺
●アクセス/阪堺線「妙国寺前」下車、南海バス「材木町」下車
●問い合わせ/TEL:072-233-0369(妙国寺) |
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