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千早赤阪村特集

[大阪府]

千早赤阪村は大阪府の南東部に位置し、金剛・葛城山地の主峰金剛山(標高1,125メートル)を隔てて奈良県御所市、五條市と隣接しています。面積は37.30平方キロメートルで、大阪市内中心部までは直線距離で20~25キロメートルに位置しています。
昭和31年9月30日に千早村と赤阪村が合併して、現在の千早赤阪村は生まれました。

千早赤阪村のいいトコ!!

千早赤阪村で憩い・楽しむ

道の駅「ちはやあかさか」

千早赤阪村には、四季折々のおいしい農産物があります。
金剛山から流れる美しい水で育ったお米、野菜はとても好評です。
ぜひお買い求めください!

電話番号 0721-21-7557

千早赤阪村の名所・文化

楠公誕生地遺跡(なんこうたんじょうちいせき)

楠公誕生地遺跡は、平成2~3年にかけて「くすのきホール」建設に伴う発掘調査が行われ、二重の堀に囲まれた中世城館跡を確認しています。遺構の時期は14世紀頃で、楠木氏が活動していた時期と合致しているため、関連のある遺構と考えられます。遺物については縄文時代から中世にいたる遺物が出土していますが、遺物のほとんどが中世のものであり、多くの瓦器、土師器、国産陶器、輸入陶器がみられました。その多くは日用雑器でしたが、輸入陶磁器の青磁や白磁の多さが一般的な館でないことを物語っています。
現在この地には大久保利通が建立を命じ顕彰した石碑があります。その周囲には、建立当時に植えられたクスノキと大正時代にこの地を訪れた皇族お手植えのクスノキがあり、その区域は今も国有地となっています。

建水分神社(たけみくまりじんじゃ)

起源は古く、崇神天皇5年(紀元前92)、諸国が飢えた時に池や溝をつくって農業を進めた際、金剛山麓に水の神を祀ったことに始まると伝えられており、平安時代の書物『日本三代實録』や『延喜式―神名帳―』にも社名が登場する古社です。
中世、後醍醐天皇の勅命により、楠木正成公が従来あった山下の場所から現在の山上に社殿を遷座、延元2年(1337)に神位正一位を賜ったとされています。明治33年に大阪府の神社建築として、初めて特別保護建造物(国宝)に、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。
また、摂社の南木神社は、楠木正成公を祀る日本最古の神社で、湊川にて戦死された翌年の延元2年(1337)に創始されました。現社殿は昭和15年に官幣社建築に準じて設計再造営されたものです。

不本見山(ふもとみやま)

不本見山は「一夜のうちにできあがった山」との言い伝えがある形の秀麗な山で、神様がいらっしゃる神体山、神奈備山などと呼ばれていました。そこには相撲を好む神様がいらっしゃるといわれ、秋祭宵宮の夜に「ヤーホ相撲」が奉納されています。
また、不本見山山頂にある不本見神社への階段を上がり手水舎奥の階段を降りたところに層塔があります。この層塔は、灯身には梵字のみならず仏像が彫られるなど大変珍しい塔ですが、凝灰岩という大変脆い材質のため保護の必要があるという意味を込めて、村指定文化財第1号となりました。

国史跡赤阪城跡(くにしせきあかさかじょうあと)(下赤坂城址(しもあかさかじょうし))・楠木城跡(くすのきじょうあと)(上赤坂城址(かみあかさかじょうし))・千早城跡(ちはやじょうあと)(千早城址(ちはやじょうし))

千早赤阪村にある3つの国史跡は全て、鎌倉時代末から南北朝期に活躍した建武の中興の大忠臣・楠木正成公の築いた山城です。正成公は戦いのためには武略と智謀が重要であると考え、村全体を一つの城と見立てて戦いを繰り広げました。一番低い位置にある赤阪城跡は、太平記に出てくる最初の“赤坂城”(いわゆる下赤坂城)で、現在も残っている棚田を利用した山城です。村の中腹にある金剛山尾根上の楠木城は、下赤坂城落城後に武将・平野将監(ひらのしょうげん)を配して守らせた赤坂城(いわゆる上赤坂城)で、大変険しく攻め辛い山城でしたが、水の供給源を絶たれて落城しました。金剛山に最も近く尾根の頂点に立つ千早城跡は、三方を険しい谷に囲まれた自然の要塞です。水の補給源を確保し、城壁に藁人形を立て並べる奇策などを講じた、正成公の武略と智謀の結集ともいえるこの城は、太平記によると100日間にも及ぶ激しい籠城戦にもかかわらず落城しなかった山城で、この戦いが鎌倉幕府滅亡の契機をつくりました。

千早赤阪村の業種別ガイド

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