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日頃、見慣れた風景でも、ちょっと見方をかえてみませんか? きっと新しい何かが見つかるかも知れません。
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一揆 〜今川了俊と松浦党〜 |
北朝方の九州奪回の切り札として九州探題に送りこまれた今川了俊は、応安6年(1373年)、その第一歩として、弟の仲秋を松浦党に守らせ、呼子に上陸させました。松浦党の水軍力を味方にしていることを示すことが、九州奪回の鍵になると思ったからです。
彼の目論見は的中し、龍造寺氏をはじめとする肥前の豪族たちは、仲秋のもとにはせ参じました。
北朝方は勢いを盛りかえし、懐良親王と菊池氏を太宰府から肥後へ追い戻します。九州は北朝に統一され、やがて国内の南北朝時代も終わりました。
了俊は、つねに松浦党を頼みとし、その団結強化のために『一揆』を結ばせました。一揆とは、一族で助け合い、その行動は家や領地の大小にかかわらず、一家一票の多数決で決めるという約束のことです。『一揆契諾状』は、応安6年(1373年)、永徳4年(1384年)、嘉慶2年(1388年)、明徳3年(1392年)のものが残っています。
これらは、すべて下松浦の松浦党のものですが、上松浦でも一揆を結んでいたと思われます。
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