CityDO!
CityDO!は地域情報満載のオンライン・コミュニティです!!

d.gif
歴史・文化 観光 特産・名産 遊び 再発見
佐賀県 > 唐津・伊万里・松浦エリア > 見聞録 -再発見
佐賀県
【エリアを選ぶ】
●唐津・伊万里・松浦エリア
●神埼・三養基エリア
●佐賀エリア
●小城・杵島・藤津エリア
破線
破線
jump1.gif
jump2.gif
jump3.gif
日頃、見慣れた風景でも、ちょっと見方をかえてみませんか?
きっと新しい何かが見つかるかも知れません。
松浦党の黄昏
岸岳末孫の墓(波多津町板木)
岸岳末孫の墓(波多津町板木)

豊臣秀吉に恩を感じた上松浦(かみまつら)の波多親(はたちかし)は、秀吉が名護屋城を鎮西町に築くときに協力しました。

しかし、文禄・慶長の役(1592〜98年)では、下松浦(しもまつら)の平戸松浦氏は大名として認められ、一軍をひきいて出兵したのに対し、親は龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂の配下として出兵を命じられ、大名と認められなかったことが不満でした。

そのため波多親は、出兵も直茂とともにせず、出兵後も直茂とともに行動せず、慶尚道(キョンサンド)の熊川(ヴンチョン)にとどまって軍を動かしませんでした。これが秀吉の逆鱗(げきりん)にふれます。

文禄2年(1593年)、波多親は臆病者として敗戦の責任を問われ、筑波山麓(つくばさんろく)(茨城県)へ流され、その領地を没収されました。

これは、明(みん)からの援軍や朝鮮半島の民衆たちの強い抵抗によって、日本軍の形勢が不利になっていたので見せしめの意味がありました。

こうして上松浦の松浦党、波多氏は滅びました。波多氏の非業の最後を悼んだ人びとによって波多氏の伝説は語りつがれ、旧唐津郷(きゅうからつごう)に岸岳末孫(きしだけばっそん)の崇(たた)りの伝説を、現代に残しています。
前のページにもどる
DO!テレパル50 [企業・病院・学校・店舗情報] | DO!Present [プレゼントに応募!] | DO!Park [特集コンテンツ]
CityDO!総合TOP | サイトマップ
>>利用規約 >>プライバシー >>運営・株式会社サイネックス