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長い長い年月を経て育まれてきた、各地独特の歴史や風土など、あなたの知らなかった事がきっと分かるはず。
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馬伏塚城(まむしづかじょう)跡
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この城はいつ築かれたか明らかではありませんが、文亀2年(1501)に遠江国守護であった斯波氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権をめぐって中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座生城(袋井市久能)・天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、この時には城塞として機能を果たしていたことがわかります。 城主として確かな資料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春茂とその子の氏興であり、高天神城の城主も兼ねていたとされます。今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。天正2年(1574)6月17日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城(まむしづかじょう)を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげました。 城主には家康の重臣である大須賀康高(やすたか)を置き、天正9年(1581)に高天神城が落城するまで、天正6年に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めます。しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。 現在も小字名(こあざな)として残る破城(はじょう・羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられます。城名の馬伏塚城(まむしづかじょう)の読みは「まむしづか」「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。
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