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第二次世界大戦で破壊された都会を逃れて、人々は農村に帰りました。壊滅状態にあった日本経済は、占領軍と官僚にこれまでの慣例に囚われない新しい産業政策を可能としました。農業を襲った改革は農地改革と食管法です。
地主のもつ農地と小作制度が解体されて、農家はすべて自分の土地を耕す自作農となりました。農家の収入が年によって変動しないよう、できた米は政府が一定価格で買い上げ、人々が暮らしやすい物価を維持できるような値段をつけて政府から売りに出されました。米相場で経済が混乱しないようになり、豊作貧乏が生まれなくなりました。農家は、基本的には、安心してたくさんの米を作れば作るだけ儲かる仕組みになったのです。
原料を輸入して国内で加工し海外に安く販売する日本の加工貿易は、工業の爆発的な成長につながりました。好景気はさらなる好景気と技術革新を呼び、技術立国日本が誕生します。トラクターやコンバイン・耕耘機など、日本が世界に誇る自動車産業と農業土木が、農業の重労働を機械化していきました。
化学の発達は優秀な農薬や肥料、病害虫や天候不順に強い稲の品種改良を促し、科学技術立国日本の最先端の成果が農業にも反映し、米は大増産を始めます。ついに昭和42年(1967年)には史上最高の豊作1,445万トン、翌年には稲作面積史上最高(328万ha)を記録、日本の米の全盛期が訪れます。
ところが。作りすぎた米は余ってしまい、去年とれた米・古米や、一昨年収穫の古古米が人々の食卓に上り始めるようになります。経済成長とともに飽食の時代を突き進む国民生活のなかで、不味い政府米は敬遠の対象になり、国民の食生活の多様化=米消費量の低下を招くのきっかけになります。
政府はついに減反政策を決めました。米を作らない田を年間で決め生産量の調整を始めたのです。折りしも昭和元禄の華やかさの中で、農村の若い人は都会へ移り、農村の過疎化と高齢化が進行して行きました。
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