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国の命令でそうめんを??平安宮廷料理人蛇に化けるそうめんそうめんからたこやきへ
そうめんで恋愛を語る恋の逃避行の最後に…そうめんも世につれ歌につれ同情された堂上公家

そうめんで恋愛を語る【室町時代】

 さて。禅僧による文明開化を経験しちゃった中世日本には、工芸品を専門に作る「職人」という民衆を生み出しました。古来中国では職工を差別する風習があるのですが、なぜか職人や技術が大好きな日本人、早速、この職人をテーマにした遊びをやってしまいます。それは歌合わせというもの。歌合わせは、テーマを決めて歌を詠み合い、その巧拙を競って遊ぶゲームのようなもので、職人をテーマにした歌合わせでは、それぞれの職人になりきって、その職工にまつわるものを読み込んで、花鳥風月に恋愛を詠み込もうというゲームとなります。ま、落語で言う大喜利に近い感覚でしょうか。
 16世紀初頭に出版された「七十一番職人尽歌合」という書物には、そうめん職人をテーマにした和歌が詠まれているので紹介しましょう。

 我恋は建仁寺なるさうめむの 心ふとくもおもひよるかな

 建仁寺とは日本でも五本の指に入る有名な禅寺。建仁時なるさうめむ、とは建仁寺ブランドのそうめんなのでしょうか。「心太く」とは芯が丈夫なことなのか、あるいはまだまだ麺が太かったのか。気が利いているのは結句の「おもひよるかな」。数本の糸をひねって一つにすると丈夫な糸になるように、「よる」という作業にはヒネリを加えて丈夫にする意味が込められています。腕にヨリをかけて、って言いますよね。実は中国から伝わってきた技術は、油を使って麺にヨリをかけて丈夫にしながら麺を細めていく技術だったのです。恋の「おもひ」をヨルことと、思い寄ることを掛詞にしたこの名句に、この歌人のそうめん製法の知識を窺い知ることができます。

恋の逃避行の最後に…【江戸時代】

 江戸時代の庶民文化というものは、今の庶民文化と同じかそれ以上に猥雑なもので。今では日本を代表する文芸作品も、読んでみれば遊郭が舞台だったりしてしまいます。
 さて、近松門左衛門が書いたある遊郭の話を噛み砕いて書きましょう。今は奈良県となった大和の国から大阪の遊郭に売られた「梅川」。この梅川によく通っていたのが、今の郵便配達員のような仕事をしていた飛脚の忠兵衛。二人は人知れず恋に落ちたのだが、ある金持ちの客が是非とも梅川を愛人に、と大金を用意してきた。時代は江戸時代、遊郭の旦那がOKを出せば、梅川は金持ちに転売される身、忠兵衛は二人の恋を守ろうと、金持ちよりも大金を払って梅川をゲットしました。…大阪の屋敷に届けるはずの大事な「役所の金」に手をつけて…。お尋ね者指名手配犯となってしまった梅川と忠兵衛、手に手を取って、梅川の故郷の大和は新口村(にのくちむら)へと、愛の逃避行を開始します。

【奈良のはたごや三輪の茶屋、五日三日夜を明かし、二十日あまりに四十両、使いはたして二分のこる、鐘もかすむや初瀬山、よそに見捨てて親里の新口に着きけるが】

ここに出てくる「三輪」とは、京都から伊勢へと向かう伊勢街道に位置する町で、日本最古とも言われる大神神社のお膝元、そしてそうめんの発祥地でもあります。既に江戸時代の観光案内にも美味なりと紹介されている三輪そうめん。伊勢へ続く街道への道で、三輪の茶屋に宿泊し、そうめんを楽しむのが江戸時代の旅人の定番コースだったのです。もちろん梅川も忠兵衛も、愛の逃避行の果てに、持ち金使い果たすまで食べたであろう三輪そうめん。伊勢に向かう初瀬山を背に、梅川の故郷の新口村に戻ってみるが、お役人の追っ手は厳しく二人はあえなくお縄となって打ち首になってしまったというお話。

そうめんも世につれ歌につれ【江戸時代】

 江戸時代も中頃は貨幣経済の浸透に伴って、商品作物の栽培と工場制手工業が盛んになる時代と教科書で習いますが、とにもかくにも各地の名物名産品が全国に流通し、そのなかにそうめんの名産地も数多く現れるようになります。加賀前田百万石の輪島で作られる「輪島素麺」も、織田信長の時代には御所御用達、つまりは天皇への貢物にも使われたほど名前の聞こえた名産品。そうめん製造の季節である冬場には、近郊の村々から出稼ぎアルバイトを募集するぐらいの大盛況でありました。

 石油ストーブもセントラルヒーティングもない時代。暖冬どころか当時は今よりぐんと寒い寒冷期でしたから、冬場の水作業はつらいことの連続です。つらい労働に耐えるため、素麺職人たちが歌っていたのが「麦屋節」という民謡。麦を臼にかけて粉引きをしながら唄った歌は、米は一年で実るけれども、麦の場合は年をまたいで栽培するから2年がかりだとか、いかにも民謡らしい歌。

 出稼ぎアルバイトで近国から来た職人が加賀輪島の麦屋節を覚えて帰り、地元で歌ったことから、麦屋節は北陸のあちこちに広まっています。さすがだな、と唸ってしまうのが、麦屋節の伝わっている地域には、輪島そうめんをルーツにもつ名産そうめんが誕生しているケースが見られること。出稼ぎで学んだそうめんの技術と麦屋節が、その地域に根づいて新しい名産そうめんとなり、新しい麦屋節となります。このようにしてみると北陸地方の民謡とそうめんも、なんだかドラマティックに思えてきます。ある地方では、輪島の麦屋と期待して来たが仕事がきつくて故郷が恋しい、なんていう意味の麦屋節も江戸時代当時にはあったりして、なんだか他人事に思えない、江戸時代の働く庶民なのでした。

同情された堂上公家【幕末維新時代】

 幕末の長州藩といえば、高杉晋作に久坂玄瑞、桂小五郎、村田蔵六、伊藤博文に山県有朋と、幕末維新の中心人物を大量に輩出した場所であります。この長州では暖かい気候を利用して、夏に米、冬に麦を栽培する二毛作が盛んです。長州下関は菊川そうめんという、これまた有名なそうめんの産地、もともとは飢饉のときの対策と農家の副収入を当て込んだ、そうめん製作でもあって、長州の庶民にとって、そうめんは慣れ親しんだ庶民の味なのであります。幕末の京都に集う新日本を夢見る志士たちは、長州の他には薩州、土佐、肥前など、いずれ暖かい南国ばかり、長州ほどのそうめんの産地ではないにせよ、そうめんに対する庶民的な親しみはほとんど同じであったものだろうと思われます。

 幕末の政治運動は「尊皇運動」と言われるように、皇室や朝廷を尊ぼうという運動でありました。そもそも幕府の将軍は、天皇から任命される官職だから天皇の家来、日本で最高の権力は朝廷でなければならないというのが尊皇派の考え方です。なのに朝廷は、三万石の小大名並みの所領しかなく、古い宮中儀礼と格式を守るギリギリの予算しかないため、非常に質素倹約しながら暮らしておられたのであります。

 さて、岩倉具視。昔は500円札の肖像を飾った、明治維新の立役者にしてシナリオライターのこの公卿。家が非常に貧しく、賭博場をやって会計の足しにしていました。この岩倉と幕末の志士、多くは農民のせがれどもが、日々集まっては情報交換を行うのだが、岩倉家で振舞われるのはなんと、そうめん!。ああ、ミカドにハイエツできる公卿の岩倉さままでが飢えをしのいで素麺を食べていらっしゃる…なんとこの世は間違ってるのだ…と、志士たちは思った。世が世なら、会うことも口を利くこともかなわない、自分の出身地の藩主より偉い岩倉様が、我々と同じ食べ物を食べてるなんて…。志士たちは、朝廷をお助けしようと堅く堅く心に誓ったのでありました。

 だが、ちょっと待って欲しい。平安時代には皇族や貴族でも、祝日の特別な日に食べていた素麺。もともとは公家の伝統食と言えなくもないのです。まったく、人の団結なんかも、どんなきっかけどんな勘違いから生まれるものか、知れたものではありません。
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