富士宮市の名所・文化
富士山と数々の伝説
神の山として古来から信仰され、愛でられてきた富士山。富士宮市は、富士山のビューボイントであふれています。また一方で、富士宮市は数々の歴史ロマンが息づいているまちでもあります。
富士山
神の山として人々の信仰と尊敬を集めた聖地
日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも
います神かも 宝とも なれる山かも
駿河なる 富士の高嶺は 飽きぬかも
高橋蟲麻呂
富士山は、万葉集の中で国の鎮めの神、国の宝であると表現され、古来より日本の象徴とされています。その富士山の麓、富士宮市には富士山の噴火を鎮めるため、富士山本宮浅間大社が建立され、その地は聖地とされ栄えてきました。多くの名将、武将も信仰を寄せ、市内各所には伝説が残され、緑あふれる田園には歴史ロマンがあふれています。また、富士山は、豊富で良質な地下水や湧水を生み出し、名瀑白糸の滝や朝霧高原をはじめとする貴重な自然や生態系を生み出し人々を虜にしています。
変幻自在の富士山
ここ富士宮は、富士山のビューポイントであふれています。富士山の西側のため、朝日が富士山頂から昇る「ダイヤモンド富士」が田貫湖で楽しめます。また、富士山頂に満月がかかる現象も「パール富士」と呼ばれ大変神秘的です。
ダブルダイヤモンド富士
【田貫湖】
パール富士
富士山本宮浅間大社
国の重要文化財に指定された本殿
現在の大社は、その社伝によれば大同元年(806年)征夷大将軍坂上田村麻呂が、山宮の地から遷宮したもので、全国に1,300余社あるといわれる浅間神社の総本宮です。祭神は美貌と貞淑の誉高い木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)で、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・航海・漁業・農業等の守護神として全国的な崇拝を集めています。
富士宮口
剣ヶ峰に一番近い登山口
5つある登山口の中で富士宮口は昔から表富士登山道として親しまれてきました。なんといっても山頂に一番近い標高2400メートルまで車で行けることがポイントです。さらに、山頂観光の人気スポットである日本一高い剣ヶ峰(3776メートル)や浅間大社奥宮、富士山頂郵便局が最短距離にあります。山小屋がほぼ等間隔で建っていますのでペースが掴みやすく、歩行距離も一番短い登山道です。
山頂からの御来光
富士宮市内の構成資産
構成資産とは?
富士山とともに世界遺産となる周辺の文化財のことです。
大宮・村山口登山道(おおみや・むらやまぐちとざんどう)
富士山本宮浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道です。12世紀前半から中ごろにかけて末代上人の活動をきっかけに登山が開始されたと考えられています。その後、一般人の富士登拝も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれています。資産の範囲は現富士宮口登山道の六合目以上です。
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
富士山を浅間大神として祀っているのが浅間神社であり、富士山本宮浅間大社はその総本宮です。社伝によれば、山宮から現在地に遷座されました。平安時代から信仰をあつめ、特に徳川家康の保護を受けて現在の社殿が造営されました。また、家康の寄進をきっかけに富士山八合目以上を御神体として管理しています。境内には富士山の湧水による「湧玉池」があり、かつては富士登山者がここで登山前の禊ぎを行いました。
山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、日本武尊が創建し、浅間大社の前身であるとされています。拝殿・本殿等を設けず、富士山を望む遥拝所のみという特殊な形態は、噴火を鎮めるために山を遥拝していた古代の富士山祭祀の形をとどめていると推定されています。
村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)
平安時代末期に富士山の噴火が衰えると末代上人など山中で修行する人々が現れました。これが発展し、鎌倉時代の終わりには富士山における修験道が成立します。この中心となったのが村山浅間神社(興法寺)です。江戸時代末までここの修験者たちが大宮・村山口登山道を管理しました。
人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)
「浅間大菩薩(富士山の神の名称の一つ)の御在所」と伝えられた溶岩洞窟の人穴は、富士講の開祖とされる長谷川角行が16~17世紀に修行し、入定したと伝えられる聖地です。境内には、信者たちが建立した角行や先達等の供養碑や顕彰碑、登拝記念碑が約230基残されています。
白糸ノ滝(しらいとのたき)
富士山の湧水が約200メートルにわたって噴出している白糸ノ滝は、16~17世紀、富士講開祖の長谷川角行が修行を行った地とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となりました。また、景勝地としても古くから有名で、和歌・絵画の題材にもなっています。
数々の伝説が残るまち
富士川の合戦で敗れた平家の落人伝説、平維盛の墓や京都本能寺で討死したはずの信長の首塚、多くの文化財を有し四季折々の風情が魅力的な名刹西山本門寺など数々の歴史ロマンが息づいています。
曽我兄弟の仇討ち
曽我兄弟の父は工藤祐経に暗殺されました。仇討の機会を待った兄弟は、源頼朝が富士山麓を舞台に巻狩りを催した際に、ついに仇討ちを成し遂げますが、兄の曽我十郎祐成は斬殺され、弟の曽我五郎時致は捕らえられ処刑されました。現在、音止の滝の東方には、兄弟が密談をしたといわれる「曽我の隠れ岩」や工藤祐経の陣所が置かれた所だといわれる「工藤祐経の墓」さらに、源頼朝の命によって兄弟の霊を慰める為につくられたという「曽我八幡宮」があります。曽我八幡宮東の小高い丘の上には、「曽我兄弟の墓」がまつられています。
曽我兄弟の墓
工藤祐経の墓
平維盛(たいらのこれもり)の墓
平清盛の嫡孫で、その美貌から光源氏の再来と称されました。富士川の合戦、倶利伽羅峠の戦いで相次いで敗れ、入水自殺したといわれていますが、稲子の地に隠れ住み天命を終えたと伝えられ、その墓は見事な石積みが印象的な美しい棚田の中央に佇んでいます。また、樹齢四百年とも言われる桜の下に七基の馬頭観音が並ぶ桜峠にも、維盛が立ち寄ったとの逸話が残されています。
信長の首塚 【西山本門寺】
境内にある樹齢500年の柊(静岡県指定天然記念物)の根本に京都本能寺で討死したはずの織田信長の首が本因坊算砂(日海上人)の命により埋葬されているとの伝説が残されており、11月にはその伝説に由来した「信長公黄葉まつり」が盛大に開催されます。本堂の横には樹齢400年とも言われる見事な銀杏の木があり、秋には見事な黄金色に輝きます。
信長公首塚と柊
山本勘助(やまもとかんすけ)ゆかりの地
山本勘助は、明治以降架空の人物ではないかと言われてきました。それが、昭和44年のNHK大河ドラマ「天と地と」をきっかけに、北海道で発見された市川家文書(信玄書状)に「山本菅助」という名前が出ていたので、実在の人物だといわれるようになってきました。一説には、勘助の生誕の地は駿河国富士郡山本郷(現富士宮市)であるとされ、勘助が生まれたといわれる吉野家や幼少の頃遊んだといわれる勘助坂など、ゆかりの地が点在しています。
左)「山本勘助誕生地」の碑
右)勘助の誕生の地とされる山本の風景