世界遺産:富士山

基礎情報

富士山 ~信仰の対象と芸術の源泉~

「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」(ふじさん-しんこうのたいしょうとげいじゅつのげんせん)は、2013年にユネスコの世界遺産リストに登録された日本の世界遺産である。静岡県と山梨県にまたがる日本最高峰の富士山は、古来富士山信仰が育まれた霊峰であるとともに、葛飾北斎の冨嶽三十六景などに代表される芸術上の主要な題材として、日本国内のみならず国際的にも大きな影響を及ぼした文化的景観を形成している。

登録までの経緯

世界遺産登録にあたり

平成19年1月、富士山は、世界遺産としてユネスコ(国連教育科学文化機構)へ推薦する候補を記した我が国の「暫定リスト」に登載された。それは、富士山が美しく荘厳な姿を基盤とし、様々な信仰や芸術を生み出した「名山」として、世界にふたつとない価値を持っているからである。 平成24年1月、富士山の推薦書が、ユネスコ世界遺産センター(パリ)へ提出された。

世界遺産リストへの正式登録

2013年6月22日にカンボジアのプノンペンで開催されていた第37回世界遺産委員会で、富士山は世界遺産に登録された。世界遺産としての正式な登録名は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」(英: Fujisan, sacred place and source of artistic inspirat ion / 仏: Fujisan, lieu sacrque)となった。

構成資産

古より数多くの信仰と芸術を生み出した富士山に関わる文化財には、その山体だけでなく、周囲にある神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼などがあります。 これらの文化財は、富士山の価値を構成する資産(構成資産/構成要素)として富士山山体とともに世界遺産となっています。
ここでは世界遺産(文化遺産)としてふさわしい価値を有している富士山の構成資産/構成要素について紹介します。

基礎情報

1.富士山域 ※1
2.富士山本宮浅間大社
3.山宮浅間神社
4.村山浅間神社
5.須山浅間神社
6.冨士浅間神社(須走浅間神社)
7.河口浅間神社
8.冨士御室浅間神社
9.御師住宅(旧外川家住宅)
10.御師住宅(小佐野家住宅)
11.山中湖
12.河口湖

13.忍野八海(出口池)
14.忍野八海(お釜池)
15.忍野八海(底抜池)
16.忍野八海(銚子池)
17.忍野八海(湧池)
18.忍野八海(濁池)
19.忍野八海(鏡池)
20.忍野八海(菖蒲池)
21.船津胎内樹型
22.吉田胎内樹型
23.人穴富士講遺跡
24.白糸ノ滝
25.三保松原 ※2

※1. 山頂の信仰遺跡群、大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)、須山口登山道(現御殿場口登山道)、須走口登山道、吉田口登山道、北口本宮冨士浅間神社、西湖、精進湖、本栖湖を含む。

※2.ICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧告では除外が相当とされていたが、世界遺産委員会の場では、多くの委員国の賛同を得て登録が認められた。

信仰の対象

富士山信仰の明確な定義はないが、富士山を神体山 、または信仰の対象とすることなどを指して富士山信仰と言われる。特に富士山の神霊として考えられている浅間大神とコノハナノサクヤヒメを主祭神とするのが浅間神社であり、全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街に「本宮」があり、富士山頂に「奥宮」がある。また徳川家康による庇護の下、本殿などの造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合目以上を寄進された経緯で、現在富士山の八合目より上の部分は登山道・富士山測候所を除き浅間大社の境内となっている。平安時代後期に富士山の噴火が静まると、富士山に登って修行する修験が現れた。富士山信仰も、拝む山から登拝する山へと変化した。

最初に富士山に登って修行したのは12世紀中頃の末代上人だと言われ、山頂に大日寺を建てたと言われている。その流れをくむ人たちによって村山に富士修験の拠点がつくられ、大宮町を起点として村山を経て山頂に向かう登山道(大宮・村山口登山道)が開かれたと考えられている。富士山の登山道は、他にも須山口(現裾野市)、須走口(現小山町)、吉田口(現富士吉田市)などが開かれた。特に吉田口は、江戸で富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降では、他の登山口の利用者の合計と同程度であったという。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1906年(明治39年)に新大宮口が開削された。

日本古来の山岳神道と、密教等をひとつの信仰として結びつけた神仏習合は、富士山も例外ではなかった。山頂部は仏の世界と考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩」という呼称が確認されている。富士山頂の8つの峯(八神峰)を「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年~1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八葉の嶺あり」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。

しかし、慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると、これら神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。富士山中における仏像の取り壊しなどが進んだ。富士山興法寺は、大日堂と村山浅間神社に分離され、大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ。北口本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊されることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名も変更された。

芸術の源泉


絹本著色富士曼荼羅図 狩野元信


冨嶽三十六景 山下白雨 葛飾北斎


冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎


冨嶽三十六景 凱風快晴 葛飾北斎


冨嶽三十六景 諸人登山 葛飾北斎


甲斐夢山裏富士 歌川広重

和歌・物語

富士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」 (3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ…」(巻3・319・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。
『新古今和歌集』から。富士山の煙が歌われている。
風になびく富士の煙の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな 西行 (#1613)
都人にとって富士山は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士日記』が富士山の様子や伝承を記録している。
『竹取物語』は物語後半で富士山が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現存している。
ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士山に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない。富士山は甲駿の国境に位置することが正確に認識されているが、古代においては駿河国に帰属していたため、古典文学においては駿河側の富士山が題材となることが多いが、『堤中納言物語』では甲斐側の富士山について触れられている。

絵画・浮世絵

富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記録からこの頃には富士山を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき聖徳太子が富士山を駆け上る姿を描いたもので、富士山は中国絵画的な山岳図として描かれている。
鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士山が描かれ、富士山信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼荼羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認識されていた。
室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士山は三峰型富士で描かれている。
江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨獄三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士山を描き、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士山を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。
また、歌川広重(安藤広重)も北斎に後れること『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版し、広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。
浮世絵に描かれた富士山は西洋美術にも影響を与えた。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵を通じ、ヨーロッパではいわゆるジャポニスムの風潮がおこり、たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの作品『タンギー爺さん』には、浮世絵(歌川広重『冨士三十六景』)の模写という形で背景に富士山が描かれている。


小額政府紙幣 (富士桜) 50銭
表面(上):富士山、桜、旭日
裏面(下):彩文模様
1938年6月1日発行、1948年12月8日廃止

近代芸術における富士山

富士山は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士山が日本を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士山を題材とした作品を制作しているが、富士山を描いた風景画などを残している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。
富士山麓に滞在した作家は数多くいる。武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士山を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士山を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。
太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士山にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。
「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」

富士宮市
イベントカレンダー

4月上旬
芝川日和 内房たけのこ・さくらまつり
4月中旬
富士の巻狩り 狩宿さくらまつり
曽我物語 工藤祐経供養祭
5月4日~6日
流鏑馬祭(やぶさめまつり)
6月
フードバレー推進月間
6月下旬~7月上旬
まちなかアートギャラリー
7月1日
富士山お山開き
8月第1土曜日
富士山御神火まつり
8月第1日曜日
宮おどり
9月
畜産まつり
9月
上井出天満宮相撲
10月
ウルイビックフィッシング
10月上旬
田貫湖まつり・アートフェスタ
11月3日~5日
富士宮まつり
11月上旬
信長公黄葉まつり
11月中旬
農業祭
1月上旬
消防出初め式
1月中旬
たこたこあがれ in 富士山
2月第2日曜日
富士宮駅伝競走大会
3月上旬
富士宮ますつり大会
3月下旬
全国高等学校男子ソフトボール選抜大会

富士宮市 わが街事典

『わが街事典』は行政と民間による協働事業によって発行される暮らしのガイドブックです。行政情報や地域情報が豊富な便利な冊子です。

PC版を見る

協賛事業者一覧

わが街事典アプリ版ダウンロード|無料

  • iPhone版
  • iPad版
  • Android版